WBCと金印「漢委奴国王」
- 校長
- 3月23日
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更新日:3月31日
ワールド・ベースボール・クラッシック(WBC)で少し気になったことをあげるとすると、台湾が「チャイニーズ・タイペイ」と呼ばれていたことです。この呼び方には違和感がありますが、日本も、かつて、このような呼ばれ方をされていたときがありました。
歴史の勉強で初めの頃に出てくる「金印」の話です。
書いてある文字は「漢委奴国王」。

「漢の倭の奴国の王」ということですが、「倭の奴国の王」がどうして「漢(中国)の」なのでしょう。
日本が中国の一部のようですし、中国が上で日本が下のようです。
今の台湾がチャイニーズ・台北と呼ばれることと同じ感じです。
歴史は暗記科目などと言われますが、歴史とは物語です。物語の流れを考え、自分も物語の中にいるように考えると歴史はものすごく面白くなります。
奴国王の当時のことが書かれた文献『後漢書・東夷伝』にはこうあります。
西暦57年、倭の奴国の王がみつぎ物を持ってきた。・・・漢の皇帝である光武帝は、金印を与え、奴国王に王の位を与えた。
日本の国の中に、なぜ、わざわざ海を渡って中国の皇帝に挨拶に行く国があるのかも少し考えたいところですが、要するに、「虎の威を借る狐」です。ジャイアンとスネ夫の関係とも言えます。
当時の世界は東アジアが世界でした。漢はその世界の中心でした。
周辺の国は独立国ではなく、中国が親分で、まわりの国は子分の関係です。
だから、周辺の小国の王は、漢の皇帝にみつぎ物を持ってあいさつに行く。
そうすると、漢の皇帝もよろこんで「おまえが王であることを私が認めよう」となるのです。それが、この東アジアの世界のルールでした。
これを中華秩序、または、中華冊封(さくほう)体制といいます。
王様というと一番偉い感じですが、この時代の「王」とは「皇帝」の家来を意味します。
「皇帝」に「倭の奴国の王はお前に与えよう」と「王」にしてもらう。
その証拠が「金印」なのです。
中華思想は、中国(漢民族)が世界の中心で最も優れた「中華」であり、周辺の異民族を野蛮人と見下す思想です。東の野蛮人は東夷(とうい)、南の野蛮人は南蛮です。
世界の中心である中華は、まだ漢字を使いこなしていない周辺の野蛮人に、音が同じで悪い意味の字を与えます。漢字の意味はこうです。
「倭」・・・背中の曲がったチビ
「奴」・・・奴隷、召使い
「夷」・・・野蛮人
奴国の王の時代から200年が過ぎて、卑弥呼が登場しますが、
さて、ここでちょっとクイズです。
Q,卑弥呼も中国の皇帝に金印をもらって中国の家来になったのでしょうか?
それとも、家来になるのをやめて中国との親分子分関係(中華冊封体制)をやめることができたでしょうか?
「魏志倭人伝」に何と書いてあるかを見てみると、
西暦239年、卑弥呼は魏(中国)にたくさんのみつぎ物を持たせて使いを出した。魏の皇帝の家来になるためである。
その年の12月、魏の皇帝は卑弥呼にこう伝えた。
「おまえが倭の王であることを認めてやろう。そのしるしとしてこの金印をさずける」
こうして使いの者は、倭の王であるしるしとして「親魏倭王」の金印をもらって帰った。・・・
卑弥呼は南の狗奴国との戦争のとき、魏に応援をもとめ、魏の皇帝から応援の旗をさずけられ・・・
卑弥呼の「卑」・・・いやしい
邪馬台国の「邪」・・・よこしま、正しくない
卑弥呼の時代もまだ、中国との関係は親分子分の関係でした。
中国の皇帝が世界の中心という何百年も続く国際秩序。
周辺国のだれも逆らうものなどいなかった皇帝と王という上下関係の世界秩序に対し、それはおかしいぞ!と行動を起こした人物が東アジアの世界でたった一人、日本に現れました。それが聖徳太子です。
聖徳太子は大国である隋と対等な関係を目指しました。
では、ここで問題です!
Qみなさんが、聖徳太子と同じ時代に生きていたら、聖徳太子の隋との対等外交政策に賛成ですか?それとも、反対ですが?
冷静に考えてみてください。
そんなことをして大丈夫でしょうか?
攻め滅ぼされませんか?
現在、台湾は、「我々はチャイニーズ・タイペイなどではない!独立国台湾だ!中国とも対等な関係だ!」と簡単には言えないのではないでしょうか。
聖徳太子は国際情勢を分析し、当時、隋が高句麗攻めに苦戦しているとの情報から、日本が高句麗の味方になると隋は困るというタイミングで、隋に手紙を送ります。
それが、あの有名な手紙です。
607年
『日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや』
「日が上る」と「日が沈む」もそうですし、「つつがなきや」も軽いタメ口のようですが、
「天子」と「天子」は完全に対等です。
「天子」とは天から地上の統治を任された唯一の「皇帝」のことです。
何百年もの間、皇帝と王という上下関係だったのに、対等に書いてあれば、隋の皇帝煬帝は激怒するでしょう。しかし、日本を敵に回すと高句麗攻めがやりにくくなるので、戦争にはなりませんでした。
激怒した隋の皇帝からの手紙には何と書いてあったのでしょうか。
日本書紀によると、隋の皇帝煬帝からの大切な手紙を、なんと小野妹子は無くしたそうです。えっ!無くした?!って感じですが、よほど酷い言葉が書いてあったので無くしたことにしたのではないかと想像してしまいます。
そして、次が一番難しい問題です。
激怒した隋の皇帝へ、次の手紙はどのように書いたら良いでしょうか?
「天子」と言ったことは撤回して謝罪すべきと考えますか?
次に送った手紙がこうです。
608年
『東の天皇、敬(つつし)みて、西の皇帝にもうす』
ここで、初めて対外的に『天皇』という言葉が出できます。
「皇帝」でもなく、「王」でもなく、「天皇」
天皇という言葉は、中国語では北極星のことだそうです。
地上の統治者の皇帝に対し、宇宙の星ですからすごい言葉ですが、「つつしみて」が入り、「致す」を「申す」に変えることで丁寧な感じもします。皇帝は激怒しなかったようです。
聖徳太子のねらいは見事に成功し、東アジアの世界でただ一国、日本だけが、中華冊封体制から自立し、独立国になることできたのです。以降、日本は、王ではなく、大和朝廷の大王(おおきみ)はこの時から天皇を使い続けています。
朝鮮が中国から独立するのはそれから1300年も後(日清戦争後)の事ですし、現在の台湾と中華人民共和国の関係の難しさを考えると、聖徳太子がいかに難しい問題を解決した偉人かが分かります。
歴史は暗記科目ではなく、出来事と出来事の流れを考え、登場人物(私たちの祖先)がいかに悩み、どのように行動してきたのかを考えると、本当に面白いと思えてきます。


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